過去の記録-5/11 石巻・渡波にて

5/11(水)の1日だけ、夫とともに石巻渡波地区でボランティアをして来ました。
被災者の皆さんを買い物に連れて行くのが目的でした。。
1か月以上前のことになりますが、記録として残すことにします。
この時はカメラを向けるのが申し訳ない気がして、被災地の写真はあまり撮れませんでした。


この時の流れは以下の通り。

1.事前にネットで物資を募集。
  募集したのは、お水、パックご飯、カップ麺、缶詰類、ふりかけ。
2.5/10夜、自宅近辺でレンタルしたマイクロバスに募集した物資を積み込む。
3.5/11早朝、まずは「チーム王冠」の活動拠点(宮城県柴田郡大河原町)に搬入。
4.石巻渡波地区で配布する物資を積み込み、現地へ向かう。
5.何か所かで物資を配布、その後買い物バスとして現地の人たちを乗せてスーパーイオンへ。


ネットで呼びかけ、賛同してくださった11人の方からのたくさんの物資
(我が家にて)


【物資配布について】

渡波地区の3か所で物資を配布した。
到着を待っている人が大勢いた。渋滞で、バスが予定より1時間程度遅れたので、ずっと待ち続けさせてしまった。それでも皆さん文句も言わず深々と頭を下げてお礼を言ってくれた。

バスから荷を下ろす手伝いをしてくれた50〜60代の現地の男性が、バスの運転席の夫に向かって「次はいつ来るの?次はいつ来るの?」と何度も尋ねていて、切羽詰っている様子が切なかった。

また別の場所でも、近隣を取りまとめている年配の男性が、「次はいつ頃…?」とチーム王冠の代表の伊藤さんに真剣なまなざしで尋ねていた。せっつくような態度ではなく、冷静に、でも目は真剣で、その様子に本当に胸が痛んだ。
たとえ来るのが1か月後であっても、先のことが分かれば、それが希望になるのだと思う。

物資の配布場所では、その近所の皆さんが直立不動と丁寧なお辞儀で私たちを見送ってくださった。この方たちは何も悪くないのに、こちらも充分な物資を渡したわけでもないのに、申し訳ない気になった。


マイクロバスに積まれた物資(配布直前)


【買物バスについて】

希望者15人ほどを乗せて、車で15分の距離で再開しているスーパーイオンに行った。
バスの中は賑やかで、私たちが道が分からないので「教えてあげるよ!」と元気に言ってくれたりしていい雰囲気だった。
「おかげさまでこんなにいっぱい買えました!」とか「車だから大きなものを買っちゃった!」とニコニコしていて私も嬉しかった。

またバスの中では、「全国の皆さんのおかげで助かっています。本当にありがたいです」とも言われた。でもライフラインも使えず、瓦礫が山積みで、食料が足りない中では、充分でないのは明らかだ。


【現地の様子】

道路は、高速も含めてガタガタのところが多数。
渡波地区の住宅街では、まだ瓦礫撤去作業をしている通りもあった。
完全に流されたと思われる家(敷地)、骨組みだけ残った家、また少なくとも外観は無事と思われる家(でも確実に津波が家の中に入っている)が混在しているが、完全に流失したか、骨組みだけのような所が圧倒的に多い。


瓦礫だらけで徒歩での移動は困難。しかし徒歩圏内に食料を含め、物資を買える店舗は皆無!!
買い物は車で15分ほどの、スーパーイオンに行くしかない。
 (その道も、満潮時に水没するため、完全に孤立する時間帯あり)
しかし車でも15分かかるところに、徒歩で行って買ったものを持ち帰るのは若者でも困難。



道路や住宅にある瓦礫を、取りあえず歩道や空き地に積み上げている、といった印象。したがって、人が歩けるような道も少ない。また、津波で運ばれた汚泥が乾いた砂ぼこりが舞い上がり、マスクがあっても長時間歩くのは事実上無理だ。
信号は消えているものが多数、カーブミラーはひしゃげて下を向いていて使い物にならず。畑の中に車や船が残っている場所も多数。
ヘドロと潮の臭いが漂っているが、これでも少し良くなった方だとのこと。港の水産加工会社の魚介類が散乱して悪臭を放っていたが、それを片付けてだいぶマシになった、という。

驚いたのが、人を集めた場所から車で2〜3分のところにある郵便局の前を通った時。津波で3方の壁が抜けて、何もなくなった郵便局を見て、ほとんどの人が「えーー! 郵便局もこんなになっちゃったの!?」と驚いている。歩いて行ける距離の状況すら2か月間知らなかったということ。
どれだけ移動ができなくて、「生きる」ことだけに時間を費やしてきたかが分かった。


  バスの中からの風景
  踏切の脇にコンテナが。通行できる程度に動かしたと思われる。
  ガタガタ道で、転がりそうになりながら撮った1枚。
 


自宅避難の人たちは、自宅が無事である(と言っても、屋根や柱が残っているという程度でも)という理由で避難所を出された。避難所を出られる状態ということは被災者ではないということで、被災者リストから外され、炊き出しも物資の配給もなくなった。(4月下旬〜5月上旬)

以来、食料は自分たちで調達しなければならないが、先に書いた理由で買物に行くことは事実上不可能。今はボランティアの炊き出しや物資配布に頼っている状況。

また追い出されただけでなく、自宅に居たい理由は、防犯の意味もある。
一時期は大変治安が悪く、瓦礫の下のご遺体の手から指輪を抜き取ったりした者がいたという。

しかし私が会った人の多くは明るく、シャキシャキとしていて、雰囲気の悪さは感じなかった。実際物資が届いた嬉しさからなのかもしれないけれど…。
電気については、電柱は建ったが、各家のブレーカーが壊れてるので、通電しないお宅が多数ある。先行きの不安を感じながら、電気のない夜をどんな気持ちで過ごしているのか。
私たちに見せてくれる表情が明るかっただけに、無理させてしまったかと心配になった。しかし、また絶対にここに来てお役に立ちたいという気持ちが強まった。