地元の皆さんとのお話から

山元町のあるチームのサブリーダーさんのお話。

(海の方向を指して)津波が向こうから来るのを見た。その時初めて、自分の家が海から近いんだって思った。

お宅は海岸線から約1.5キロの位置の住宅街。私の住む横浜の住宅街と様子はまったく同じ。感覚的には海からの距離も3キロ以上はあるように思う。海辺という場所ではない。

お天気が悪いとどうしても気分が沈む。
震災以降、車の音がダメになってしまった。地震の地響きや津波の音に聞こえて、胸がドキドキする。
  

色白で目がパッチリして、ハキハキと明るくさわやかなお人。
聞かなければそんな体調不良があるようには見えない。
ハタからは見えないところで苦しんでいる。

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山元町の年配の方のお話。

開いたメモ帳に、氷川きよしの新聞広告の切り抜きが貼ってっあったので、「氷川きよしがお好きなんですね」と声をかけた。想像に反して寂しそうな表情。

(壁に向かって腕を広げて)壁にいっぱいポスターとかいろいろ貼ってあったんだよ。全部津波でだめになってしまって。
洗えば大丈夫なものもあったと思うんだー。でも片付けしてた孫たちが「ばあちゃん、捨てるよ!」って。
洗えば使えたかもしれないけど、当時は水が出なかった。
ヘドロまみれで真っ黒で、取っておきたいと言えなかった。

笑顔で語るだけに痛々しかった。
洗ってもダメだったんだと自分に言い聞かせているようだった。
非常事態だから、捨てた身内の方を責めることもできない。

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亘理町でも同じく年配の女性が、まったく同じようなことを話していた。

「ボランティアの人たちが片づけした時に、、、」と言いかけて、まずいと思ったのだろう、「ボランティアさんだけじゃなくてうちの身内もね・・・」と言い直した。

思い出のものをみんな捨てられてしまって…。着るものとか。
水が使えなかったから、洗えなかったしね。洗ったら使えたんじゃないかな。仕方ないんだけど・・・。

つぶやくような、あきらめるよう自分自身に言い聞かせるような、小さな声だった。

たまたまかもしれないが、今回あちこちで聞かれたのは、津波で失くした物に対する思慕の念だった。片づけが進むにつれてあらためて手放さざるを得なかったものを思い出すのかもしれない。

みんな異口同音に「仕方ない、私だけじゃない」と自分に言い聞かせつつ、「突然何もかも使えなくなって。水が出てたら違ったのかもしれないけど」と、諦めきれない気持ちが見える。
「仕方ない」ことがどれだけあるんだろう。

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物だけでなく、息子さんを亡くされたという年配の女性にもお会いした。

息子がね、死んじゃったんですよ。あそこに。(と、仏壇を指さす)
介護施設で働いてて、患者さんを上の階に運んで、最後に自分たちが上がろうとした瞬間に津波が来て流された、って話で。他の看護士さんや職員さんたちと一緒に。

何が何だかわからなくなってしまうの。ぼーっとしたり胸がドキドキしたり。
もっと身内を亡くして自分より大変な人はいるんだけど…。

優しい人は亡くなるのが早いって言うわよね。
あの子は優しくてね。本当に優しかったの。(46歳だったとのこと)

気になって「お一人でお住まいなんですか?」と聞いたら、ちょっと考えて「おとうさん(ご主人)がいる」と。でも息子さんの話をしている最中に、「実はおとうさんはガンで入院中で」とのこと。

私には生後翌日に亡くなってしまった4つ下の妹がいる。
小さい頃から、母の「適当ななぐさめを言われるのが本当に嫌」という悲しみと怒りを込めた言葉を聞き続けていたので、この女性にかける言葉が見つからなかった。

ボランティアをしていれば、もっと早くにこういう人に出会う可能性もあったし、「用意しておく」というと語弊があるが、その場にふさわしい対応ができたかもしれない。
でも言葉だけ、形だけ取り繕っても傷つけるだけだ。




行き帰りの道がほんとうに爽やかでいい場所なだけに、津波被害の凄まじさを感じる。